天王寺動物園「なきごえ」WEB版

なきごえ 2018年04月号 Vol.54-02

ラニー博子の思い出(旧担当者)

 1970年5月3日に来園以来、皆様に親しまれてきたラニー博子(以下博子)が1月25日17時2分に亡くなりました。博子は1970年に大阪で開催された日本万国博覧会を記念してインド政府より贈られました。以来47年以上多くの飼育担当者が博子の世話をしてきました。間近で博子に接してきた過去の担当者3人に在りし日の姿や思い出を語ってもらいました。

 

「博子の思い出」

 今は昔、私が博子と初めて会った時は8歳ぐらいだったと思います。まだ動物園のまわりには、野外音楽堂があり祝祭日には、園内にまでひびく音量で、博子は神経便(下痢)をよくしていたのを思い出します。また、前肢が弱くそれまでの前脚から後ろ脚に繋留具(けいりゅうぐ)を付け替えるための馴致(じゅんち)調教を行った時はワラなわから始めクサリに替えていくのに長い日数がかかりましたがこの時は気が荒くなり私たち飼育係が放飼場の周囲の堀に逃げ込んだ思い出もあります。

 私の最後の仕事として旧ゾウ舎から新しいゾウ舎への移動を行った際、ゾウや周囲の人間にけがが起きないよう最良の方法を考え最悪の事態の想定もしましたが、博子はある程度抵抗したものの、あきらめも早くすなおに新しいゾウ舎へ入りました。

 神経質でさびしがり屋であまえん坊だった博子。私の心の中の博子はいつまでも消えることなく生き続けることと思います。

(柴田 総)

(「なきごえ」1993年12月号より)
写真のゾウは春子

(「なきごえ」1993年12月号より)
写真のゾウは春子

 

「ラニーちゃん」

 天王寺動物園の、アジアゾウのラニー博子が永眠しました。推定49歳です。何の縁か「ラニーちゃん」とは、32年間関わらしていただきました。「ラニーちゃん」とは私が博子に対して、ほんの少しの愛情と小ばかにする時に呼びかける名称です。知ってか知らずか、私が「ラニーちゃ~ん」と声を掛けると嫌な顔をして少し離れて行くのです。博子は、春子ユリ子と3頭という小さな群れで暮らしていましたが他の2頭と関わりをあまり持たない一人ゾウだったようです。そのためか何時もイライラし、鼻を振りまわしたりものに当たったり、陰湿に我々飼育係にやつあたりしたりと気の許せない危険な奴(雌ですが)でした。でも知ってたでー「ラニーちゃん」が不器用でどう表現していいかわからずいろいろ考えてたこと、甘えたいけどどう甘えていいか悩んでいたことをいっぱい知ってたでー。

(小谷 信浩)

(2015年1月1日スタッフブログより)

(2015年1月1日スタッフブログより)

 

「アジアゾウ ラニー博子と私」

 私がアジアゾウの担当になったのが1992年3月でした。ゾウ班においては「仕事」の第1歩が寝室清掃や飼料配布、そしてゾウの観察でした。ゾウ担当になった当初、天王寺動物園には3頭のゾウが飼育されており、それぞれ春子ユリ子、そしてラニー博子が暮らしていました。

 新人のゾウ担当はラニー博子の観察・飼育がいわば登竜門となっており、先輩のゾウ担当の作業を注意深く見ていたものでした。ラニー博子との付き合いは、私がゾウ担当を離れる2016年までの23年間におよびました。寝室内では鼻回し「ぶんぶん丸」、ステップ行動など(春子に対するストレス行動と思われる)が頻繁にあり、収容後に給餌した餌も蹴り飛ばすなどの危険な時期もありました。

 また、ラニー博子は同じ方向でしか寝ない癖があり、床ずれが化膿し何年も治療してきました。結局この治療はある日を境に突然なくなりはじめたのですが、理由は新ゾウ舎に引っ越してからラニー博子が一度も横になって寝ていないだけで、完治してしまい「なんやねーん」と拍子抜けしたものでした。
治療、ゾウ同士の闘争、そして最後はひとりぼっちになり、いろいろと心配させられたり、ゾウの勉強をさせてくれたラニー博子でした。「もう足痛くないかなー、ヒロー、ありがとう!」

(西田 俊広)

(2014年12月21日撮影)

(2014年12月21日撮影)


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