日本初の飼育下でのボノボ研究


ボノボが来た

 2013年11月末、熊本県宇城市にある京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリに、ボノボが来ました。アメリカ・サンディエゴ動物園からやってきた4個体、男性1個体と女性3個体です。その半年後、2014年5月には、新たに2個体のボノボがアメリカ・シンシナチ動物園から加わりました。男性1個体と女性1個体です。現在、熊本サンクチュアリに、合計6個体のボノボがいることになります。あとから来たボノボ2個体も、元からいる4個体とすぐに顔見知りになって、熊本サンクチュアリで仲間として合流しました(図1)。

 

図1

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 この6個体のボノボが、現在日本にいる唯一のボノボです。1980年から1996年まで、国内の動物園等を転々と移動したボノボが1個体いたのですが、1996年にアメリカの施設に引き取られました。1996年以降、日本にボノボはいなかったわけです。熊本サンクチュアリで、日本で初の飼育下でのボノボ研究がスタートしました。

 熊本サンクチュアリは、もとは民間の医学関連企業としてチンパンジーを飼育していたところです。2011年にこの企業から京都大学に施設とチンパンジーが譲渡されました。そして、チンパンジーの幸せな暮らしを実現し、心や行動の研究をする場所として生まれかわりました。ボノボが加わって、チンパンジーとボノボの比較研究をすることが大きな目的のひとつとなりました。

 

ボノボとは

 ボノボは、現生の動物の中でヒトにもっとも近縁な生き物です。パン属という属に分類されます。同じパン属に、チンパンジーがいます。パン属のチンパンジーとボノボの2種が、ヒトに最も近縁な現生動物ということです(図2)。

 

図2

図2

 

 チンパンジーとボノボは、外見は比較的似ていますが、野生での社会や行動には大きく違うところがあります。チンパンジーは攻撃的で男性優位の社会を作ります。野生でも多様な道具を使うことも知られています。一方のボノボは、平和的で女性が権力を握る社会を作ります。野生で道具を使うことは少ないようです。

 ボノボという動物を科学者が正確に理解するようになったのは、実は最近の話です。チンパンジーと外見が似ているので、動物園でチンパンジーと間違ってボノボを飼育している場合もありました。チンパンジーとボノボが違う種であることは、1928年にドイツ人の動物学者によって初めて科学的に示されました。比べてみると、チンパンジーとボノボは音声がまったく違いますし、野生で暮らす地域も完全に別々です。

 

コンゴの森で

熊本サンクチュアリにボノボを迎え入れるのに先立って、野生のボノボを観察するためにコンゴ民主共和国のワンバ地域を訪れました。京都大学名誉教授の加納隆至博士が大学院生だったころに開拓した研究場所です。その後、代々の研究者たちが継続的にこの地で野生のボノボの観察を続けています。私もこの地で滞在する機会と許可を頂いて、野生のボノボを見ました(図3)。熊本サンクチュアリのボノボを理解するためには、本来ボノボが暮らす野生の森を理解し、彼らの本来の行動を観察することが大切だと考えたためです。

 

図3

図3


 ある朝、目当てのボノボの群れを追跡していると、知らないボノボが混じっているのに気づきました。隣の群れから来た男性や女性、その子どもたちでした。違う群れのボノボ同士が、まったく自然にグルーミングをしたり、性行動をしたり、遊んだりしていました。隣の群れのボノボたちは、結局1週間ほどこの群れに滞在して、一緒に過ごし、また元の群れに戻っていきました。

 チンパンジーであれば、このようなことはありません。異なる集団同士は敵対的な関係になります。ときには殺し合いになるほどです。殺し合いは集団の中でも起こります。同じ集団の仲間同士で、何かのきっかけで攻撃行動が激しくなって、結果的に死亡する個体が出てきます。これまでのチンパンジーの野外観察で、100例を超える殺し合いが報告されています。一方のボノボでは、殺し合いはまったく観察されたことがありません。同じパン属に属しながら、チンパンジーとボノボでかなり社会行動と社会関係に違いがあります。

 

認知研究

 熊本サンクチュアリにボノボを導入したのは、心や行動の研究をおこなって、人間の本性をより良く理解するためです。早速、タッチパネルを使った心理学的研究を始めてみました。

 まずは簡単な練習から始めました。タッチパネルに、大きな赤丸が現れます。その赤丸を触ると、ごほうびでリンゴのかけらがもらえます。タッチパネルに触るには、その前にある透明パネルの小窓から手を差し入れなければならないようになっていました。映画「ローマの休日」の「真実の口」のようなもの、といえば分かっていただけるでしょうか。

 まずはある男性ボノボが、恐る恐る、小窓に手を差し入れました。そして、タッチパネルを触りました。リンゴのかけらが出てきます。すぐに理解したらしく、そのあとは比較的早く、次々にタッチパネルの赤丸を触ることを覚えました。

 その横で、女性ボノボが様子を見ていました。この女性は、おもむろに、近くに落ちていた木の枝を拾いました。そして、その枝で、タッチパネルを触ろうとします。どうも、透明パネルの小窓に自分の手を入れるのが怖いらしいのです。手ではなく、小枝を小窓に差し入れます。そして、その小枝の先でタッチパネルを突つきます。するとごほうびのリンゴ片が落ちてきます。この場合、小枝はまぎれもなく道具といえるでしょう。タッチパネルに触るための道具です(図4)。

 

図4

図4


 野生のボノボで道具使用はめったに観察されません。ところが、動物園など飼育下では、ボノボも普通に道具使用行動を見せます。ボノボも、道具使用の能力はもっているのです。その能力が、何らかの理由で野生ではあまり使われないようです。それはなぜなのでしょう。その理由を調べることが、私たちの研究目的のひとつです。

比較研究と福祉

京都大学霊長類研究所などで、すでにチンパンジーを対象として蓄積されてきた研究のノウハウがあります。これを生かして、今後もボノボを対象にした比較研究をおこなう計画です。上に述べたようなタッチパネルを使った認知課題、あるいはアイトラッカーを使った視線計測、道具使用の実験的研究など、できることはたくさんあります。チンパンジーとボノボを同じ場所で同じ方法で比較する研究は世界にも先例が非常に少なく、多くの新発見が期待できます。

 これとは別に、野生での研究もおこなってきました。野生チンパンジーの研究です。それから、野生ボノボも見に行ったことは、上に書いた通りです。これで、比較研究の軸が2つ揃ったことになります。ひとつめの軸は、チンパンジーとボノボという比較です。そして、ふたつめの軸は、野生(アフリカ)と飼育下(日本)という比較です。アフリカのチンパンジー、アフリカのボノボ、日本のチンパンジー、日本のボノボ。こうした比較研究を通じて、人間の本性をより良く理解することを目指します。

 もちろん、研究の前に大切なのは、チンパンジーやボノボの幸福です。アフリカの森で、チンパンジーもボノボも絶滅の危機にあります。彼らの幸せのためには自然保護が欠かせません。飼育下で暮らすチンパンジーとボノボは、できる限り本来の行動特性を生かせるよう、生活の質の向上を目指す必要があります。研究と自然保護と動物福祉が一体となった活動をおこなうのが、熊本サンクチュアリの大目標です。

 

(ひらた さとし)


 

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