天王寺動物園「なきごえ」WEB版

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ヒガシクロサイサミアの来園

 動物園の動物たちを飼育する担当者の仕事はなんでしょうか?

 そのように問われると「ごはんを準備して与える」、「掃除をしてきれいに保つ」、「来園者に動物のすばらしさを伝える」といった答えが返ってくると思います。どれも正解なのですが、本質的な答えとしてはずばり『動物の幸福度を最大にする』ことなのです。

 動物園で暮らす動物のほとんどは、本来は野生で生活する動物たちです。野生環境に適応しながら生活し、進化してきました。いわば、本来暮らす環境にもっとも適したからだをしているということです。動物園では野生の環境を100%再現することはできません。それどころか、まったく異なる環境で暮らさなければならないことも少なくありません。そんな動物たちを、野生で暮らすときと同じぐらい、あるいはそれ以上に幸せになってもらうためにどうすればいいのかを日々考えているのです。
このときに、まず考えなければならない問いがあります。それは“幸せとは何か”ということです。生活の質(QOL)を向上させることでその動物は幸せになると考えられますが、“QOLの向上”とはどういうことなのでしょうか。動物に対するQOLの評価は大きく2つに分けられていました。ひとつめは物理的な評価です。簡単にいうと、ものがあふれていればQOLは高まるだろうというとらえ方です。当園のホッキョクグマの展示場にはたくさんのおもちゃが入っています。上部からのシャワーを浴びることができ、たくさんの観覧者も刺激になるかもしれません。それでは、これらが増えていけばいくほど、ホッキョクグマは幸せになるのでしょうか。答えは、「個体によりけり」です。これらの刺激を受けて幸せに感じる個体もいれば、うっとうしいと感じる個体もいるはずです。私たちヒトを例にとると、TVのチャンネルが1局しか見られないとすると不満に感じる方は多いと思います。しかし、「私は特定のチャンネルしか見ない」方や「そもそもTVを見ない」方にとってはチャンネル数の多さは意味を持ちません。ホッキョクグマにおいても、あらゆるおもちゃがある中で毎日特定のおもちゃしか選ばないのであれば、その他のおもちゃはQOLの向上に影響を与えないのです。“ものがたくさんあればいい”というわけではないのです。
もうひとつのQOLの評価方法は、主観的な評価です。たとえば、「あなたは幸せですか?」と直接たずねる、あるいは動物の行動を見て「あの個体はきっと幸せだろう」と推測することです。動物は私たちと話すことができませんので、前者は実施できません。後者はどうでしょうか。カバが水面に顔を出しているすがたを見て、幸せと感じる方がいたとします。カバは水中で生活する動物ですし、陸上では重いからだを支えなければなりません。その反面、ほかにすることがないから水中でじっとしている、だから幸せではないという意見も考えられます。結局、ひとそれぞれで評価はばらついてしまい、実際に動物がどう感じているのかは置き去りにされてしまいます。

このカバは幸せなのかを常に考えなければならない

このカバは幸せなのかを常に考えなければならない

 それではどのように動物の幸福度をはかるのでしょうか。ポイントは“行動”です。先ほどのTVのチャンネルを例にしましょう。もともと5局しか見ることができないTVがあったとします。しかし、両親がオリンピックを見るために衛星放送を契約し、来週から100局ものチャンネルを見ることができるようになったとします。姉はドラマや映画が大好きなので、契約した途端に30局も見るようになりました。弟はもともとTVをあまり見ず、変わらず地上波の5局のみを見ていました。この結果から、姉に対してはチャンネル数の増加はQOLの向上に貢献したと考えられますが、弟にとっては変化がないことがわかります。“チャンネルを選んで見る”という行動を評価することで、チャンネル数の増加の価値が見えてくるのです。このように、行動をQOLの指標とするときには“環境が変わる前後を比較すること”と“個体ごとに評価すること”が重要となります。そして、さらに飼育担当者として目指すべきは“行動のレパートリーが拡大していくこと”なのです。ホッキョクグマの例を考えてみると、1日中おもちゃで遊んでいるよりは、1日のうちで20%はおもちゃで遊び、30%はえさを食べ、20%は泳ぎ、30%は歩いて移動しているという行動レパートリーのほうがQOLが高いとされています。さらに、この環境に大きな氷を投入することでおもちゃ20%、えさ30%、泳ぐ20%、歩く20%、氷をかじる10%のような変化があると、氷を投入することで行動レパートリーが4から5に増加し、QOLが向上したといえるのです。ただ、これで終わりではありません。動物も慣れますし、飽きもします。5種類のレパートリーを見せていたこの個体も、毎日同じ環境であれば、そのうち氷に飽きるかもしれません。氷を投入しても反応しなくなると、行動レパートリーは5から4に減少します。つまり、QOLが低下したということになるのです。“何もしない”ことはその動物のQOL低下を招くため、動物が多様な行動を発現できるような刺激をどんどん投入していく必要があるのです。これにより、行動レパートリーの拡大が実現されていきます。

限られたクロサイのスペースでどんな工夫ができるのか

限られたクロサイのスペースでどんな工夫ができるのか

 現在、天王寺動物園ではこの指標を用いたQOL向上の評価を進めています。たとえばクロサイの記録を見てみましょう。朝と夕方に10分ずつ行動を観察しています。朝より夕方のほうが行動レパートリーが多いことがわかります。というよりは、朝はほとんどえさを食べています。準備したえさが少なくなっている夕方は採食以外の行動が多く見られます。

クロサイのサミア(メス)とライ(オス)の行動レパートリー

クロサイのサミア(メス)とライ(オス)の行動レパートリー

ここからクロサイたちのQOLを向上させるために、どのような工夫が必要でしょうか。ここが飼育担当者の腕の見せ所。このグラフの項目が増えていくような工夫、仕掛けに頭を悩ませるのが、飼育担当者の仕事なんです。

(井出 貴彦)

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