前飼育担当課長 榊原 安昭
私が大阪市に就職したのは1976年の10月。当時の環境保健局・食肉衛生検査所に配属されました。1976年はオイルショックの翌年で就職難の年でした。大阪市は当初、獣医師を採用しないとのことでしたが、3月になって10月からですが若干名を採用するとのことになり、運よく合格することができました。採用まで半年間、どうしようかと考えたのですが、子どもの頃から動物園で働きたいと考えていましたので、5月から8月までの4カ月間、天王寺動物園の動物病院で実習をさせていただきました。実習中は動物の治療の手伝いなどが中心でしたが、治療以外に思い出に残っているのはフサオマキザルとヒョウの人工哺育をさせていただいたことです。
フサオマキザルは1976年6月14日に生まれましたが、親が育てないため、人工哺育することになりました。私が名付け親になり、小さくてかわいいのでプチと名付けました。プチは人によく慣れ群れに戻せなかったので、ずっと動物病院で飼育されていて、私が動物園に転勤になった1979年4月に約3年ぶりに再会し、また、プチの世話をすることになりました。しかし、いつまでも、動物病院で飼育していくわけにはいかず、1980年2月15日に出園させることになりました。よく人に慣れていたので、どこかの動物園で人気者になったことでしょう。
ヒョウは1976年7月4日に生まれましたが、やはり親が育てなかったので、人工哺育することになりました。このヒョウも私が名付け親になりハナと名付けました。当時ヒョウは普通のヒョウとクロヒョウが飼育されていて、普通のヒョウはクロヒョウと区別するためハナヒョウと呼ばれていたことと雌だったことからハナと名付けました。ネコの仲間の赤ちゃんは乳を飲むときに前足で母親の乳房を規則正しく押さえながら乳を飲みます。哺乳瓶でミルクを与える時も前足をリズミカルに動かしますので、哺乳瓶を持つ右腕がいつも傷だらけであったことを思い出します。ハナは2カ月弱で同年8月31日に出園していきました。人工哺育以外にも、治療やサマースクールでのお手伝いもさせていただいたので、その後の動物園での仕事に非常に役に立つ経験をさせていただきました。
2年半、食肉衛生検査所に勤めましたが、1979年に縁あって天王寺動物園に転勤になりました。その後、途中5年間は西保健所などで公衆衛生の仕事をしましたが、今年の3月末で定年退職を迎えるまで、通算で28年間、天王寺動物園で仕事をさせていただきました。
28年間の動物園生活の中で、一番記憶に残っている動物は、ホッキョクグマです。私がホッキョクグマの担当獣医になった1980年の時点では推定年齢が16歳と9歳の雌が2頭飼育されていました。そこで繁殖を目指すため、2頭を出園させ、新たな若い番(つがい)を導入することになりました。若い2頭が1980年12月15日に来園しました。共にまだ1歳のとてもかわいい子熊でした。雄のユキオは北海道旭川市の旭山動物園生まれ、雌のユキコはアメリカ合衆国のタルサ動物園生まれの元気盛りでしたが、しかしながら来園後まもなく雄のユキオの具合が悪くなり、食欲がなくなったうえに、立てなくなってしまいました。旭山動物園にお願いし、そこで旭川で食べていたコオナゴという魚を空輸してもらったり、寝室前にストーブを持ち込んだりして、何とか回復させることができましたのですが、ユキオには後ろ足を少し引きずって歩くという後遺症が残ってしまいました。
そんな2頭ですが、順調に生育した4歳過ぎの1984年の春、初めて繁殖行動が見られましたが、交尾には至りませんでした。翌年、初めて交尾が観察されたので、出産に備えて、アメリカのタルサ動物園の繁殖に関する論文を参考にすることにしました。不得手な英語ですが何とか翻訳し、産室の準備をすることにしました。経費などのこともあり大規模な工事はできなかったので、園内の営繕担当の方にお願いし可能な範囲で寝室を改造しました。野生ではホッキョクグマの雌は雪の中に穴を掘ってその中で出産するので、動物園で繁殖させるためには狭い場所に閉じ込め、静かな環境を作ってやることが重要です。そこで2室ある寝室の奥の部屋を産室にすることにし、外に通じていたスリット状の窓を埋め込み、部屋の中には、ブロックを積み上げ狭い場所を作りました。さらに静かで暗い環境を作るため寝室の格子をふさぐためのコンパネも準備しました。しかし、その年は出産に至りませんでした。翌年の1986年に初めて出産しましたが、タイミングを逸し、産室に閉じ込める前に出産してしまいました。11月10日の朝、飼育担当者がホッキョクグマ舎に入るとネコのような鳴き声が聞こえました。閉じ込めに失敗したので、人工哺育で育てることにし、ユキコを外に出して、赤ちゃんを回収しました。3頭出産しており、2頭はすでに死んでいましたが、残る1頭は生きていましたので、動物病院の保育器に収容し、人工哺育することにしました。しかし、その1頭も翌日には死亡してしまいました。
翌1987年は11月に入るとユキコを産室に閉じ込め、雄のユキオは終日、放飼場に出したままにし、飼育担当者もホッキョクグマ舎には入らず、寝室の前に設置したマイクを通して鳴き声を聞くことで出産を確認にするようにしました。11月16日にマイクを通じて赤ちゃんの泣き声を確認することができました。当時、日本の動物園でホッキョクグマの繁殖に成功しているのは北海道の旭山動物園など北海道の動物園だけでしたので、本州では初の快挙でした。その後、ユキコは1998年まで、合計8回出産し4頭が生育しました。
ユキコは2004年に死亡し、2年半ホッキョクグマ舎は空いたままの状態でしたが、2006年3月にゴーゴが来園し、昨年3月には雌のバフィンを浜松市動物園から迎え、再び、ホッキョクグマの繁殖を目指すことになりました。残念ながら、昨年は繁殖に至らず、ゴーゴとバフィンの赤ちゃんを見ることはないまま退職を迎えることになったのは非常に残念ですが、今年の繁殖が成功することを祈って筆をおきたいと思います。
(さかきはら やすゆき)
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