オランウータン(サツキとサブ)と筆者

 私は昭和43年1月1日付けで天王寺動物園に採用されました。初めて担当した動物はフタコブラクダ、ラマ、カンガルー、カモシカ園で1年間程これらを担当して、翌年に爬虫類舎、カバ舎、その後、類人猿担当となりました。当事はラクダに車を引かせて園内を走ったり、宿直も月3回程あり動物園に泊まりました。当事のエサや糞(ふん)などはリヤカーを引いて運んでいました。糞(ふん)は堆肥(たいひ)にして野積みにしていました。鶴見緑地が肥料として取りに来ていたので、トラックに堆肥を積み上げる作業もしました。
 類人猿の飼育が私の飼育人生で一番思い出に残るものでした。昭和47年にオランウータンのサツキが2歳位で入園し、その担当となりました。その頃は三輪車や電動自動車の運転や、テーブルマナーなどのショウも行っていました。5月の連休の春の動物祭や秋の動物祭にはオランウータンのショウを見にたくさんの入園者が来たことを記憶しています。その後、ブルとういう雄のオランウータンとの繁殖計画が立ち上がりました。ブルとの同居の適正期を計るため、サツキの性周期の記録を取りました。交尾後は妊娠を確認するために尿中ホルモンを計測するので毎日尿を採取したりサツキのからだの変化など詳細な観察を続けました。昭和61年にサツキは雄のサブを出産しましたが、自分から母乳を与えようとしなかったため、人工哺育にしました。サブとは、2年間一緒に過ごしました。
 類人猿以外では平成10年にホッキョクグマの繁殖にも取り組み、翌年雄のホッキョクグマのユキスケが誕生したことも印象に残る思い出です。
 現在、大阪市は、予算や要員に関してたいへん厳しい状況におかれています。動物園も例外でなくその波にさらされており、存続のために飼育現場が中心となり動物飼育以外にも様々なことを試みています。それは大阪市の職員としては大事なことではありますが、動物飼育を行う者としては動物飼育の初心を忘れることなく、仕事に取り組んでもらいたいと思います。

(大東統括主任)


ブチハイエナの子供の記録を取る筆者(右)

 私は子供のころから、動物が好きだったので、中学校の担任の先生から大阪府立農芸高校に畜産科の受験を勧められ入学しました。農芸高校時代にみさき公園で飼育実習をしていた時、みさき公園の園長と天王寺動物園の中川係長が大学の同期の関係で天王寺動物園への就職を紹介されました。昭和41年8月1日に正式採用となり当事の南園のキジ舎、ヒツジ舎、大型インコ、シロクジャク、シカ、水鳥を担当しました。当事は昭和39年から開始された天王寺動物園の動物園改造9か年計画の最中で北園に新しいキジ舎が建設中でした。これが次の年の3月に完成したので、私もキジと一緒に北園へ移りました。北園ではキジとカバを担当しました。昭和45年には大阪で万国博覧会が開催され、動物親善大使としてニュージーランドからキーウィ、エチオピアからアビシニアライオンなど多くの動物が天王寺動物園に来ました。フィリピンから来園したパラワンヤマアラシとアメリカからのプレイリードックが入園した時には自ら伊丹空港に引き取りにいきました。ゾウのラニー博子が来た時には、担当ではありませんでしたが、宿直の時には乳を飲ませました。サル・ヒヒ舎を担当していた平成7年にはドリルの人工哺育、平成16年には天王寺動物園で初めて繁殖したブチハイエナの体重測定と記録写真、これは1週間にごとに行い、1年間続けました。当時はライオンも担当していたので、建設予定であったサバンナ肉食動物ゾーンの建設プロジェクトにも参加しました。最後の2年間は企画調整班に配属になり教育普及の仕事をさせてもらいました。動物飼育とは180度違う仕事でしたが、小中学生や動物園のお客様に動物園の紹介や自然保護の啓発についてお話をするなど、やりがいのある仕事でした。
 記録をつけることは大切なことで、詳細に記録したノートを持つことで、昨年は何月頃にフンボルトペンギンが産卵を開始したかとか、オオカミのワクチン接種は何月におこなったとか、昨年の記録がわかかれば、日常業務の中で仕事が立てやすいと思いますので、ぜひお勧めします。
平成7年に脳梗塞(のうこうそく)を患い、その後、無事仕事に復帰しましたが、体調がすぐれない時期もありました。皆様の支えによって無事動物園を卒業できることを感謝いたします。

(鈴木業務主任)