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■動物園での思い出 | ||||
小学校低学年の頃、担任から「大きくなったら何になりたいか」と聞かれ「動物園で働きたい」と答えたのを今も覚えています。農業高校の畜産科を卒業し動物園の飼育係を希望しましたが募集がなく、やむなく北海道の酪農家で牧夫や母校で実習助手をして募集があるのを待ちました。22歳の時、念願がかない採用されました。
大阪で開催された万国博覧会でインドから親善使節として贈られて来た生後6カ月の子ゾウラニー博子の思い出も懐かしいです。到着後ミルクを湯で溶かし哺乳瓶に子牛用の乳首を付けて哺乳しました。鼻で器用に哺乳瓶を巻いて飲み、なくなると哺乳瓶を振り催促します。満腹になると横になり鼻を巻いて眠ります。用事で側を離れようとすると不安なのか起き上がり奇声を発します。しばらく泊まり込みです。日課は博子と共に起床しミルクと果物を与え、展示場所まで走って行き鎖で繋留。カモシカ園等の担当動物の飼育管理をし、その間、数回ラニー博子に哺乳をします。夕方になり鎖を外してやると寝室まで一目散に走って帰ります。入園当時260キロだった体重が2年後には900キロに成長し収容場所が狭くなり南園の象舎へ移ることになりました。ラニー博子との別れです。下痢が続いて苦労した時も有りましたが今では懐かしい思い出です。 子供の頃から憧れていた職業に就き、同僚にも恵まれ、無事定年退職を迎えることができたことを感謝しています。 (飼育課:三浦 正明) |
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■定年退職を迎えて | ||||
昭和43年10月1日、憧れの天王寺動物園の飼育係に採用されました。夢の仕事をつかんだ思いでした。その日の感動をいつまでも忘れず、がむしゃらに突っ走った、あっという間の30数年間でした。私にとっては、実に充実した毎日を過ごすことができました。仕事の性格上、ケガをして何度か痛い目には合いましたが、これといった大きな事故もなく、定年の日を迎えることができました。今だ、退職を迎えるという実感はわいてきませんが、退職を迎える文章の作成のために机に向かうと、これも書きたい、あれも書きたい思い出が走馬灯の様に浮かび上がってきます。
40代の時にゴリラの担当を命じられました。それまでゴリラは来園以来の、同じ飼育係が担当していました。私に果たしてゴロ、ラリをうまく誘導できるのか、どのようなことをすれば先輩のようにできるのか、不安でたまりませんでした。担当して6日目でなんとか展示、収容はできるようになりましたが、ゴロは常に四肢で踏ん張り威嚇の動作を見せ、手渡しでの給餌(豆乳をストローでの飲ませること、スプーンでヨーグルトを与えること)は全く受けつけてくれませんでした。7日目の寒い朝でした。展示後の寝室を清掃している時、突然ゴロが観覧通路のガラスをめがけ強烈なパンチと肘打ちしました。「何事や」と外をすぐに見ました。巡視中の獣医師が、寒いのでポケットに手を入れて、ゴリラ舎の前を通ったのです。これを見たゴロは、ポケットに手を入れていることは何か隠しているのではと非常に恐怖を感じたのでしょうか?「わかった。わかったよ。」私は直ぐに帽子を取りました。腕カバーをも取り、着ていたジャンパーのボタンも全てはずし、何も隠していないことを示して、何事もなかったように清掃を行なっていると、格子越しにゴロが座って私を見ているではないですか、側に行くと四肢で踏ん張ることなく、威嚇の動作も見せず、穏やかな顔を私に見せてくれました。 2006年3月吉日 (飼育課:丸本 守) |
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■野生との間で | ||||
動物園で飼育展示されている動物は、ほとんどが野生動物です。ところが今では自然の中で暮らしたことのない個体も少なくはありません。もう何世代も動物園の飼育下で暮らしているものもいます。このような動物を飼育することは都合がいい場合もあります。飼育環境に順応しているし、どんな食物を与えたらよいのかなど飼育に必要な情報が分かっています。したがって、このような知識や情報を得るために、手さぐりで苦労した先人たちの体験を必要としないのです。反面、飼育するための工夫や考えて飼育する楽しみがなくなっているかもしれません。あるいは動物の本来の姿を知っているつもりになり、日常の飼育作業に慣れすぎて飼育している動物が野生動物であることを忘れてしまう危険もあります。 (飼育課:大野 尊信) |
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