DNA 生命をつなぐ不思議な糸
■動物園での思い出
▲カンガルーと筆者

 小学校低学年の頃、担任から「大きくなったら何になりたいか」と聞かれ「動物園で働きたい」と答えたのを今も覚えています。農業高校の畜産科を卒業し動物園の飼育係を希望しましたが募集がなく、やむなく北海道の酪農家で牧夫や母校で実習助手をして募集があるのを待ちました。22歳の時、念願がかない採用されました。
 最初、配属されたのはカモシカ園とラクダ舎とカンガルー舎でした。カモシカ園にはベイサオリックス、エランド、ニルガイ、スプリングボック、ブラックバック、エゾシカ、ハナジカ等60数頭を雑居飼育していて飼育頭数も多く忙しい毎日でした。動物園での思い出は数々ありますが、その中でもカンガルーの人工哺育と子ゾウのラニー博子の思い出は印象深いです。
採用されて翌年のある日、いつもの様にカンガルー舎へ入舎するとコンクリートの床に被毛もまだ生えて無いカンガルーの子供が落ちていました。もう死亡しているのではと不安気に抱き上げると、かすかに動きました。体温も低下しているので毛布で育児袋を作り子供を入れて電気アンカで保温しました。暫くすると体温ももどり、空腹なのか口を動かします。自然では育児嚢の中で乳腺を咥え分泌される乳を飲んで育ちますので他の動物の様に一度に多量の乳を飲むことができません。早速、ヤギの乳をスポイドで流し込むように哺乳。夜は自宅に持ち帰り哺育しました。

▲子ゾウ、ラニー博子と筆者

 大阪で開催された万国博覧会でインドから親善使節として贈られて来た生後6カ月の子ゾウラニー博子の思い出も懐かしいです。到着後ミルクを湯で溶かし哺乳瓶に子牛用の乳首を付けて哺乳しました。鼻で器用に哺乳瓶を巻いて飲み、なくなると哺乳瓶を振り催促します。満腹になると横になり鼻を巻いて眠ります。用事で側を離れようとすると不安なのか起き上がり奇声を発します。しばらく泊まり込みです。日課は博子と共に起床しミルクと果物を与え、展示場所まで走って行き鎖で繋留。カモシカ園等の担当動物の飼育管理をし、その間、数回ラニー博子に哺乳をします。夕方になり鎖を外してやると寝室まで一目散に走って帰ります。入園当時260キロだった体重が2年後には900キロに成長し収容場所が狭くなり南園の象舎へ移ることになりました。ラニー博子との別れです。下痢が続いて苦労した時も有りましたが今では懐かしい思い出です。

 子供の頃から憧れていた職業に就き、同僚にも恵まれ、無事定年退職を迎えることができたことを感謝しています。

   (飼育課:三浦 正明)


■定年退職を迎えて
▲人工育すうしたシュバシコウと筆者

 昭和43年10月1日、憧れの天王寺動物園の飼育係に採用されました。夢の仕事をつかんだ思いでした。その日の感動をいつまでも忘れず、がむしゃらに突っ走った、あっという間の30数年間でした。私にとっては、実に充実した毎日を過ごすことができました。仕事の性格上、ケガをして何度か痛い目には合いましたが、これといった大きな事故もなく、定年の日を迎えることができました。今だ、退職を迎えるという実感はわいてきませんが、退職を迎える文章の作成のために机に向かうと、これも書きたい、あれも書きたい思い出が走馬灯の様に浮かび上がってきます。
 20代では、昼夜関係なく夢中に過ごしました。シュバシコウ(ヨーロッパコウノトリ)のエポーエコーとカンムリヅルのハッピーの人工育すうの思い出、また、木曾馬のアカとの友情など、動物とともに喜怒哀楽を体験することができました。また、カバの出産のことも忘れることができません。出産後、子カバの哺乳を確認しなければなりません。閉園後、カバ舎の屋内観覧通路に座り込み、周りには蚊取り線香数本をおいて4時間あまり観察を続けたことが思い出されます。カバは授乳を水中で行ないますが、水が糞で濁っているので確認には時間がかかりました。私はカバの出産を3回経験しましたが、最初の哺乳観察が後々に非常に役立ちました。若さも体力もあり、動物たちと共に過ごすことが、とても楽しくてならなかった、20代の飼育経験でした。
 30代にはライオン、トラの人工哺育も数回経験しました。また、クロオオカミ(チュウゴクオオカミの黒変種)の一腹8頭の出産に出会い、4頭は親にまかせ、4頭は人工哺育にしました。自然哺育の4頭、人工哺育の4頭全て順調に育ち、オオカミ舎に10頭のクロオオカミがそろって展示されたときは、担当飼育係員として熱い思いの喜びをひしひしと感じた時でした。大きく育ったジャスティフェイ(公募でそれぞれ別の名前をつけていただきましたが、私は最初につけた、呼びなれた名前で呼びました。)の園内引き運動では、2度咬まれ痛い思いをしましたが、最後まで私の手元に残った2頭には格別の思いが今でも強く残っています。

▲人工哺育したチュウゴクオオカミと筆者

 40代の時にゴリラの担当を命じられました。それまでゴリラは来園以来の、同じ飼育係が担当していました。私に果たしてゴロラリをうまく誘導できるのか、どのようなことをすれば先輩のようにできるのか、不安でたまりませんでした。担当して6日目でなんとか展示、収容はできるようになりましたが、ゴロは常に四肢で踏ん張り威嚇の動作を見せ、手渡しでの給餌(豆乳をストローでの飲ませること、スプーンでヨーグルトを与えること)は全く受けつけてくれませんでした。7日目の寒い朝でした。展示後の寝室を清掃している時、突然ゴロが観覧通路のガラスをめがけ強烈なパンチと肘打ちしました。「何事や」と外をすぐに見ました。巡視中の獣医師が、寒いのでポケットに手を入れて、ゴリラ舎の前を通ったのです。これを見たゴロは、ポケットに手を入れていることは何か隠しているのではと非常に恐怖を感じたのでしょうか?「わかった。わかったよ。」私は直ぐに帽子を取りました。腕カバーをも取り、着ていたジャンパーのボタンも全てはずし、何も隠していないことを示して、何事もなかったように清掃を行なっていると、格子越しにゴロが座って私を見ているではないですか、側に行くと四肢で踏ん張ることなく、威嚇の動作も見せず、穏やかな顔を私に見せてくれました。
 「そうかゴロは今までの私の服装が気に入らなかったのか」私はそれまで常に帽子、腕カバー、ジャンパーのボタンは止めた服装で動物の飼育に携わってきました。それがゴロには不安だったのでしょう。 その後、私はジャンバーのポケットを手が入らないように縫いつけました。その日の夕方の収容時には、シャッター前に座って私が扉を開くのを待っていました。給餌時には私の前に座りました。豆乳をストローで飲み、ヨーグルトをスプーンで与えることができました。それぞれの餌も一つ一つ手渡しで受け取ってくれました。前日までとは大きな違いでした。
なんとかトラブルもなく、冬と春が過ぎました。問題は夏です。暑い夏を今までのようにスムーズに誘導ができるか、私は不安でした。7月の暑い日の朝でした。いつもどおり寝室の清掃を行なっていますと、ゴロが私の側に近づいてきました。そしてさかんに何か合図を送るしぐさをしまた。無視していると扉の格子をつかんでさかんに揺すりました。私がゴロの側に行くと、じっと私の持っているホースを見つめました。ホースからは水が出ていました。気がつきました。私はこわごわそっとホースをゴロの方に向けると、ゴロは手のひらで水遊びを始めだしました。次に顔に水をかけろとのしぐさを、顔に水をかけると手で顔を上から下に洗いはじめました。この動さでゴロの下唇がめくれ、まるで笑っている顔に見えました。ゴリラの笑い顔を初めて見ました。次に頭を下げ、頭にかけろとのしぐさ、そしてぐるりと回って背中を私に向けましたので、私は背中に強く水をかけてやりました。ゴロの背中を見ていると何か熱いものが込み上げ、ゴロの背中がかすんだように見えました。次に向き直り、胸にかけろとのしぐさ、私は勢いよく胸をめがけて水をかけました。最後にドラミングを行ない私から離れて行きました。
 「ゴロは私を信用している。信頼してくれている。もう大丈夫だ。」うれしかったです。その後、一度もトラブルはなく、9年間ゴリラの担当を全うすることができました。今にして思えば、ゴリラの飼育担当をしていた頃が、一番神経を使っていたのではないかと思います。
50代ではカバの捕獲の体験をしました。新しいカバ舎の完成にともないテツオナツコを引っ越しさせなければなりません。子カバの捕獲経験は何度かありましたが、大人のカバの経験はなく、不安でした。子カバの捕獲の経験とカバの性格を利用して、放飼場に捕獲檻を設置し捕獲することにしましたが、檻に入った瞬間に後戻りしないように檻にあけた穴に鉄パイプを通さなければなりません。その瞬間、恐怖を感じました。2頭の引っ越しが無事に終わったとき新カバ舎内で誰からとなく歓声が起こり、捕獲に従事したスタッフの握手、熱い思いのこもった握手、心底喜びのこもった感動を強く感じました。その日の夜のお酒の美味しかったことが今でも強く心に残っているカバの捕獲搬入の経験でした。
 50代半ばには飼育の仕事に余裕もでき、自信も生れた頃でした。1999年4月に飼育課の機構改革が行われ、飼育課・飼育係に企画調整業務担当という新しい部署ができました。私がその企画調整業務担当を命じられました。全く今までと違った業務です。動物園における教育普及を中心とした仕事です。これまで動物の飼育一筋の31年間でした。人前での講話、お話の経験は全くありません。また、ワープロなど触ったこともない私でした。私にとって自信があるのは30年間の現場飼育体験だけです。50の手習いとはよく言ったものです。初心に帰り、飼育係に採用された20代の頃の気持ちで取り組もうと思い、この7年間はがむしゃらに、突っ走りました。この間、職員の研修も担当し飼育課の皆さんのご協力を得て動物飼育技術研修も軌道に乗せことができました。残すところ爬虫綱、両生綱の魚綱だけになったところで、退職を迎えました。38年前の天王寺動物園の飼育係への転職、この時に私は天職を得たと思っています。

2006年3月吉日

   (飼育課:丸本 守)


■野生との間で

 動物園で飼育展示されている動物は、ほとんどが野生動物です。ところが今では自然の中で暮らしたことのない個体も少なくはありません。もう何世代も動物園の飼育下で暮らしているものもいます。このような動物を飼育することは都合がいい場合もあります。飼育環境に順応しているし、どんな食物を与えたらよいのかなど飼育に必要な情報が分かっています。したがって、このような知識や情報を得るために、手さぐりで苦労した先人たちの体験を必要としないのです。反面、飼育するための工夫や考えて飼育する楽しみがなくなっているかもしれません。あるいは動物の本来の姿を知っているつもりになり、日常の飼育作業に慣れすぎて飼育している動物が野生動物であることを忘れてしまう危険もあります。
 天王寺動物園が計画を進めているZoo21計画は、野生動物のあるべき姿を何処まで再現できるかをめざしています。それはただ新しい施設ができたから解決するものではありません。飼育係の日々の観察をとおしての努力は欠かせないと思っています。
 野生動物について私たちが分かっていることはわずかですが、動物園がある限りそこに生きる動物たちの幸せと正しい理解に努めることは人間にしかできないことだと思います。

   (飼育課:大野 尊信)