京都大学霊長類研究所 松沢 哲郎


京都大学霊長類研究所の屋外運動場。15mの高さのタワーがあり木々が繁茂している。健康な暮らしには、こうした環境エンリッチメントが不可欠だ。
(撮影:熊崎清則)
 日本とアフリカでチンパンジーの研究を続けてきた。京都大学霊長類研究所では、コンピュータを利用した学習場面や、同室して対面した検査で、知覚・思考・記憶といったチンパンジーの知性のさまざまな側面を調べている。その一方、西アフリカのギニア国のボッソウでは、石器をはじめ道具を使うチンパンジーの暮らしぶりを調査してきた。
 京大での研究のパートナーはアイ。初めて出会ったのは1977年の暮れだった。まだワシントン条約を日本が批准していない1970年代、たくさんのチンパンジーの子どもが野生で捕まえられ日本に送られた。その1人である。現在、京大には、アイとその息子のアユム(4歳)や、日本で生まれた最初の人工授精児のポポをはじめ、1群15人のチンパンジーが暮らしている。1歳から38歳まで、祖父母から孫までの3世代からなる大家族である。
 野生チンパンジーは、複数のおとなの男性と女性、その子どもたちからなる集団で暮らしている。この「群れ」の大きさは、少なくて10数人、多いものでは100人を超える。仲間たちとの暮らしの中で、群れに固有な文化的伝統が、親の世代から子どもの世代へと引き継がれていく。
 たとえば、チンパンジーの道具使用として、タンザニア国ゴンベの「シロアリ釣り」が有名だ。しかしボッソウのチンパンジーはそれをしない。一方、ボッソウでは、一組の石をハンマーと台にしてアブラヤシの硬い種を叩き割って中の核を取り出して食べる。でもゴンベではしない。たとえていえば、日本人がお箸を使って刺身を食べるからといって、人類がみなそうするわけではない。それと同様、チンパンジーにもそれぞれ固有な文化的伝統があり、生まれてからの経験を通じて習いおぼえていく。
1組の石を使ってアブラヤシの種を叩き割って
食べるボッソウのチンパンジー。

 現在、多摩動物園が中心になってまとめたチンパンジー国内血統登録によると、日本には355人のチンパンジーがいる。全体の約3/4は、日本全国の51の動物園に分散して暮らしている。1人ないし2人で飼育しているところが、全体の4割近い19園ある。野生のように「仲間との暮らし」がないチンパンジーは、かなり奇妙な存在だ。歪んだおとなになる。実際、動物園等での出産例をみると、約2例に1例という高頻度で、母親は「育児放棄」してしまう。産んだとたんにギャーッと悲鳴を上げて逃げた例を見たことがある。子どもを抱いたとしても、上下が逆さまで、あかんぼうが母親の乳首に吸い付けない。だんだん弱っていって、獣医師の判断で子どもを人工哺育にする例が多かった。

アイの息子のアユムは4歳になって数字の勉強を始めた。
(撮影:熊崎清則)

 これまで8例の出産に出会った。最初の3例のうち2例は人工哺育になり、自分の家に連れ帰って育てた。4例目は死産だった。残りの最近4例は、いずれも母親が育てている。ただし、この4例のうち最初から母親が抱いて育てたのはアイだけだ。あとの3人の母親、クロエパンプチは、生まれた子どもを抱かなかった。床に産み落として放置してしまった。

 母親の身になって考えてみると、出産というものに動転したのだろう。3人とも、身近に子育てを見た経験が皆無ではなかったが野生なら、まさに生まれたときからずっといつも身の回りに子育て中の仲間がいてそれを見て育つ。飼育下ではそうした経験が圧倒的に乏しい。他の知識や技術と同様に、子育てにも学習が必要なのだろう。そこでこの3例では、母親が子どもを抱くように仕向ける「育児介助法」を実践した。いずれも最終的には母親に抱かせることに成功した。経験から学んだコツを紹介したい。
 まず、母親と子どもだけにして静かにようすを見守る。母親が子どもに危害を加えることはないようだ。出産時にバッと逃げた拍子に新生児を蹴飛ばした例を見たことはあるが、それ以上のことはないと思う。母性が内に宿っている。子どもが元気にうごめいていると、母親は近づいてくる。子どもが泣きさけんだりして母親がぐっと近づくと、子どもの手が偶然に母親の体に当たり毛をつかむ。いったんつかむと子どもは絶対に離さないし、母親もそれを振りほどいたりはしない。
 母子の出会いを高めるために、一番親しい飼育担当者が入室し、食べ物を与え毛づくろいして母親を落ち着かせ、子どもを抱くようにしむけるのは有効だ。母親は、人間が子どもを持っているからといって飛びかかったりはしない。飼育者が母親の胸にそっと子どもをつけてやると、子どもはしっかりと毛を握りしめ、母親はこわごわとしがみつくにまかせてそのまま抱いた。

チンパンジーの母親プチに抱かれる生後22日目の娘のピコ。
(撮影:熊崎清則)

 抱いたからといってすんなりと授乳には到らない。抱き方が悪くて乳首に口が来ない。そうした場合は、子どもの位置を介助者が少しずらして乳首に近づけるのが有効だった。まる一日くらい授乳しないでも子どもはだいじょうぶだ。それでも授乳がうまくいかないとき、母親に哺乳瓶を与えながら子どもにも哺乳瓶を与える「二刀流」で、子どもに「哺乳」ならぬ「補乳」をして水分と栄養を補給した。プチのばあい、出産から一晩放置された状態で新生児ピコを発見したので、生後9日間、体力を回復させるために人工哺育した。そして、9日目に親子を初めて出会わせ、翌10日目に母親に抱かせることに成功した。それでもお乳は出ていた。飼育者とチンパンジーが親しくない動物園でも、母親の隣室に子どもを置いて間仕切りを開けてみるというようなくふうで、人工哺育しながらも母親に返す努力を継続することが重要だろう。少なくとも生後の10日間は有効だと実証されている。人工哺育は極力やめるべきだと思う。

 どうしてそうまでして母親に育てさせるのか。子どもの救命を第一に人工哺育ではなぜいけないのか。それは、チンパンジーには親子のきずなが必須だからだ。チンパンジーの母親は昼も夜も一日24時間子どもを抱き続ける。生後の3ヵ月は片時も離さない。子どもは4歳になってもまだ完全には離乳しないし、夜は必ず母親と一緒に眠る。それがチンパンジーの親子のあり方であり、そうしたきずなのもとでチンパンジーの子どもはさまざまな経験を積んでおとなになっていく。たとえ飼育下でも、「チンパンジーにはチンパンジーとして生きていく権利がある」のではないだろうか。チンパンジーと呼べる存在に育つためには母親が必要だ、とわたしはしみじみ思う。

(まつざわ てつろう)