天王寺動物園長 中川 哲男


  天王寺動物園勤務はあっという間の25年でした。動物園へ転勤する前は衛生部局で公衆衛生の仕事をやっていました。ある時、上司から「動物園へ行ってみないか」と言われ、何とかなるだろうと軽い気持ちで引き受けましたが、中々どうして軽い気持ちで仕事ができるようなところではない、と気がつくのは、さして時間はかかりませんでした。それからというもの必死で真剣にやってきたという気持ちのほうが強くあります。
 わずか4半世紀の25年間ですが、結構、変化にあふれた経験をさせていただきました。6人の園長に仕え、所属部局も2度改編して公園局から建設局、ゆとりとみどり振興局となり、事務所も動物園単独から天王寺公園事務所を統合し3行政区の公園を管轄する150名の大所帯となりました。当初は何も分からずしゃにむにやってきたと言えます。それこそ人の迷惑顧みず、猪突猛進、独断専行、しかし悔いは残っていません。
 在職中の思い出はと問われると、まず1つは「ZOO21計画」の推進でしょう。もう1つはWAZA「世界動物園水族館協会」への入会です。
  「ZOO21計画」は1980年のIUCN(国際自然保護連合)が提唱する「世界環境保全戦略」の動物園・水族館に対する勧告に示唆を受けたもので、21世紀における天王寺動物園の改修計画の礎となったものです。計画の発端は天王寺公園への多目的ドーム球場誘致でした。本計画は平成2年に草案され、幾度となく修正が加わって平成7年に計画書が完成し、それに基づき動物園の改修計画が順次実施されていきました。爬虫類生態館「アイファー」、カバ舎、サイ舎、アフリカサバンナ区草食動物ゾーン、アジアの森ゾウ舎が完成し、今年度にはアフリカサバンナ区肉食動物ゾーンに着手します。最も思い入れがあったのはカバ舎で、水中透視のカバ舎を計画するため既設のオハイオ州トレド動物園、サンディエゴ動物園、シンガポール動物園を視察し、大いにヒントとなりました。また、雄カバの生年月日が私と同じ10月10日から「テツオ」と名付けたことも、そして、天王寺動物園独自の血統を作るため4度目にようやくメキシコ産雌カバ「ティーナ」を輸入したことも思い入れに結びついています。


各国の園長と

WAZAで講演中

 もう1つの思い出のWAZA「世界動物園水族館協会」への入会は3代前の園長からWAZAの会議にオブザーバー出席していきましたが、何とか正会員になれないものかと福島県の水族館「アクアマリンふくしま」の安部館長、よこはま動物園の増井園長から資料を送っていただき、膨大な資料を作成して、数カ国の会員評議員に郵送し、1年間の審査期間を置いて入会が認められた時は非常に喜んだもので、ウイーンの会議では必死になって英語でプレゼンテーションしたことが楽しい思い出となっています。

飼育実習

 動物園に配属されて、まず手っ取り早く動物園を覚えるために飼育実習が始まりました。当時の飼育担当者は、30名だったと思いますが30数ヵ所の動物舎を1ヵ月半かかって回りました。はじめは全くの素人であるためゾウやキリン、チンパンジー、ゴリラなどに単純に憧れ、「可愛い」、「優しい」というような感情しか持っていませんでしたが、実習をして担当キーパーからいろいろ詳しいことを伺うと、危険で油断ならない動物ということが分かってきて、甘い感情は吹っ飛んでしまいました。後に脱出事故や人身事故を経験するに至ってますます怖さがわかってきました。ニホンザルのサル島実習では、「物の本」でサル島に入るときは一人が見張りで一人が作業をし、決して不用意に背中を見せない・・なんて書かれてあるから極度に緊張し、この本の話をしたところ「アホちゃうか、そんなことしてたら仕事にならんがぁ〜」と失笑を買ったことを覚えています。その頃書き取ったメモは今も机の引き出しに大事に残っています。

宿直の面白さ
 
 今から15年程前までは宿直があったように思います。私も係長になるまでは旧事務所時代に宿直をしていました。宿直は飼育1名、管理1名の2名体制で飼育は動物管理、管理は庁舎管理ということになっていました。宿直は獣医師も事務職も園芸職も飼育職もが一体となってローテーションを組んで行うわけですが、コミュニケーションには最適で夜遅くまで話し込んだりして結構楽しかったものです。宿直業務は夜間と早朝の動物個体確認や動物舎の施錠確認、異常確認などですが、当初は宿直が面白くて、夜間の見回りではゴリラやチンパンジーの寝姿が人間と同じ様に手枕で寝ているのを見て感心したり、個体確認で懐中電灯をシマウマやバーバリシープやシカに当てると目の色が金色やグリーンに反射して驚いたり、早朝から鳴き声をあげるテナガザル、ワライカワセミ、インドクジャク、セイラン、ツルの声をテープレコーダーで録音したり、写真を撮ったりと忙しくて楽しい宿直であったように思います。
ボランティアとサマースクール:
 

サマースクールで

 ボランティアの指導とサマースクールのお手伝いをさせていただいたのは昭和55年からだと思います。これは私自身にとっても学習になり、10年近くお付き合いをしました。その頃のボランティアは学生が半数以上を占め、平均年齢25歳、女性が7割で、残りが社会人と主婦で、60歳以上の高齢者もいました。私自身も30代後半で若かったこともあってボランティアと一緒になって近隣の動物園見学やバードウォッチングなどにもよく出かけました。そのうちボランティア自身の人生相談や結婚相談にも乗るようになり、結婚するもの、別れて退会するもの悲喜こもごもでありました。いまだにその頃のボランティア達とはグループで付き合いが続いています。
 また、その頃作ったカバやサイやライオンの骨格標本が今も教育用に頻回に使われていることはうれしいことです。

海外旅行と動物園見学
 
 生まれて初めて海外旅行をしたのは昭和63年の上海市との動物交流事業の出張で、以来、退職までの16年間に19回11カ国を訪問し、動物園へ行かなかった国はありません。特に印象に残ったのはやはりニューヨークのブロンクス野生生物保護センター(ブロンクス動物園)、シンシナティ動物園、シアトル・ウッドランドパーク動物園、サンディエゴ動物園、オランダ・エンメンのノールダー動物園、ベルギーのプランケンデール動物園などです。いずれの動物園も組織は細分化、専門化されており、当園のように2課2係の何でも屋ではなく、保護増殖課、動物倫理課、財務課、市場開発課、指導教育課、造園園芸課、アート・サイン課などに整備されており、動物飼育も門、綱に分けた専門の課が設置されています。当然、研究所も併設しているところが多くありました。上にあげたいずれの動物園も生態的展示を取り入れ、居ながらにしてその雰囲気が味わえる作りになっていました。また、遊び心も豊富で、子ども達の冒険心をあおるようにクリ舟やドラム缶いかだが浮かべてあったり、水面ぎりぎりに吊り橋が架けられてあったりと楽しい仕掛けが随所に見られました。また、展示場への場面展開も廃坑の中を通り抜けるとか、サバンナやジャングルの小道を抜けるとかすると視界が開け、その情景の雰囲気に浸りこむような仕掛けがなされているのには度肝を抜かれるという感じです。このほか教育的なサインも教えてやるというような高圧的なものでなく、やさしく素晴らしい展示でした。
 動物園に働くものとして先進の動物園・水族館を見て回るのは非常によい刺激になり、趨勢、傾向もよくわかり、今後の動物園をどのようなものにしていくかについて、多くの示唆を与えてくれるものです。
 最後に、楽しい思い出をたくさん与えていただき、また、園長まで押し上げて頂いた職場の皆さんに深く感謝申し上げると共に、天王寺動物園・公園が市民に愛され、親しまれ、いつまでも美しい施設であることを念じつつ、また、皆さんがご健勝ご多幸であることを祈念し、拙文を締めくくります。

平成16年3月末日 天王寺動物園長 中川哲男


健・画