東京大学名誉教授 正田 陽一


オーストラリアン・メリノ
サフォーク
灘ヒツジ
オストフリーシャン

 スペインを旅行した時の思い出です。
 カスティーリァ地方の古都・バリャドリーの観光を終えて、バスでサラマンカへ向かっている時でした。時刻は午後九時過ぎ。スペインの夏の日は長いとはいえ、そろそろ黄昏の薄闇が迫っている窓の外に、私はヒツジの群れが道路のわきの畑の中をバスの進行方向に向かって歩いているのを見つけました。何百頭ぐらいの群れでしょうか? ヒツジの薄汚れた背中がモコモコと波うちながら移動しているのですが、周辺に人影は一人も見られません。「ヒツジだけで放牧されてるのかナ」と思った時、バスはこの集団を追い越しました。そして群れの先頭に一人の小さな男の子が、手に長い竿を持って歩いているのに気がつきました。何か宗教画を見るような光景でした。私は窓から乗り出すようにして振り返ったのですが、疾走するバスのスピードはすぐに少年の姿もヒツジの群れも背景の中に溶け込ませてしまいました。
 あれだけの大群を幼い少年がたった一人で率いているのが、私には不思議に思えたのですが、翌日訪れた牧場で牧夫がこう説明してくれました。
 「ヒツジは群居性の強い動物で、必ずリーダーの後ろに従って一群になって行動する。その群れにヤギを一頭入れておくと活発なヤギがリーダーになる。だから人間はそのヤギだけをコントロールすれば、どんな大きな群れでも一人で思うままに動かせるのだ」と。スペインだけではなく、中央アジアの遊牧民もモンゴルの農民たちも、ヒツジとヤギのこの性質の差を利用して放牧を行っています。
 ヒツジもヤギも哺乳動物綱・偶蹄目・ウシ科・ヤギ属に属する動物です。ヒツジ属とヤギ属に別れてはいても、両者は近縁な動物ですから似ているのは当然ですが、違っている点もたくさんあります。
 ヤギは性質が活発で高い所に登るのが大好きですが、ヒツジは平坦な場所を好みます。またヒツジは群居性が強く集団で行動しますが、これにはヤギにはない三つの分泌腺が大きな役割を果たしているのです。目の縁にある眼窩腺、下腹部の鼠蹊腺、蹄の間にある趾間腺ですが、ことに趾間腺の働きが大きいのです。ヒツジは歩く時にこの腺からの分泌を土の上に残し、その匂いが個体間の連絡の役に立っているのです。
 ヒツジとヤギの区別といえば、ヒツジにはムクムクとした柔らかい毛(ウール)が生えているのに、ヤギは全身短く固い毛(ヘアー)が生えていて、簡単に見分けられると思う方もあるかもしれません。しかしヒツジの品種にもヘアー・シープといって粗い毛しか生えていない肉用のヒツジもいますし、ヤギの中にもアンゴラ種やカシミヤ種のように長い毛の毛用種もあります。
 一番、簡単な見分け方は、ヤギの尾は短くピンと跳ね上がっているのに、ヒツジの尾は長く垂れ下がっていることです。ただ、毛用のヒツジは尾で尻の周囲の毛を汚さぬように、生後まもなく第2尾椎のところから切り落として〔断尾〕してしまいますから、尾がないように見えます。
 またヤギには顎髭のあることも特徴の一つです。
ヒツジは多目的に飼育される家畜です。
 羊毛は主要な生産物の一つですが、この細く柔らかいウールは、野生のヒツジでは春先に抜け落ちてしまう冬毛を、抜けずに伸びつづけるように改良したものです。毛髄がなく中空なので、軽くて保温性が優れています。全身に1cm2当たり8,000本の密度で密生しており、野生羊の10倍です。日本では桜の花の咲く頃刈り取りますが、1頭から背広1着分の毛が採れます。
 毛用種としてはメリノ種が有名です。スペインで改良された本種は大切に保護されて、生体の輸出は厳禁で、違反者は死刑に処せられるほどです。国の友好のために各国の王家に贈られたメリノ種を基にして、フランスではランブイエ、ドイツではサクソニー、オランダでは南アに贈られてケープと各種のメリノ系種が成立しました。さらにこれらのメリノ系種がオーストラリアで改良されて作出されたのがオーストラリアン・メリノ種です。
 羊肉はその特有な匂いと脂肪の融点が人の体温より高いため冷食に向かないことから、わが国では評価が低いですが、宗教的なタブーがないために世界中で肉用種のヒツジが広く飼われています。英国のサフォーク種、サウスダウン種、オランダのテクセル種、フィンランドのフィン種、中国の蒙古羊など数えればきりがありません。羊肉の匂いも慣れた人たちにはかえって魅力の一つになっているのかもしれません。ヤギ肉もかなり匂いがきついですが、食べ慣れた沖縄の人たちはヤギの内臓の入った「なかみ汁」を美味しいと言います。
 羊乳もそのまま飲用にしたり、チーズの原料乳として使います。有名なフランスの青黴チーズ・ロックフォールも羊乳のチーズです。乳用種としてはフランス原産のラ・クーヌ種、ドイツ原産のオスト・フリージァン種があります。
 毛皮用の品種ではカラクール種が有名です。生まれたばかりの子羊は真っ黒な毛が強くカールして、毛先が内側に巻き込まれていて、その美しい毛皮は、婦人用の高級コート地として“アストラカン”と呼ばれ珍重されています。中国の湖羊種もその美しい毛皮が防寒帽に使われます。
 この他、社会情勢の変化や周辺環境によって毛用にも肉用にも飼える兼用種もあります。戦前の日本で中心的に飼育されていたコリデール種は、ニュージーランド原産の兼用種で気候風土に対する適応力が強く、高温多湿の日本の夏にも耐えることができました。
 わが国ではヒツジは、現在、2万頭弱が北日本を中心に飼育されているにすぎませんが、最近の動物園ではふれあい広場や子供動物園にヒツジを飼っているところが増えています。
 未〔ヒツジ〕年の今年、ぜひ動物園へヒツジに会いに来てください。